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いいのか本当に(子宮頸がんワクチン)

ずっと心配でウォッチングしている本件ですが、なかなか「副作用」とされるものの実態がわかりません。
http://www.asahi.com/articles/ASG931TRXG93UTIL001.html
上の記事では、「副作用」を訴えている人には免疫異常が見られる場合があるとありますが、「なぜそうなるのか」はやっぱりわからない。
そして最近こんな記事が出ました。
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO79350030W4A101C1000000/
接種後数か月から一年以上という時間をかけて出た症状の方が、より重篤…。
その症状がまたさまざまで、生理不順や過敏性腸症候群的なものまで。うーん、このうちどれだけのケースが子宮頸がんワクチンに特有の副作用と判断し得るだろうか。
上の記事の医師らは、「副作用」に苦しむ声に誠実に応答しようとして多くの声を拾い上げたのだろうけれども、逆に副作用が広範に確認されたように受け取られている。ネット言説はもうすでに「犯人捜し」に入っているようです。
http://www.huffingtonpost.jp/tsukasa-shikano/injection_b_5172070.html?
上のような副作用の判断に関する慎重論は、批判で火だるまになりそうな雰囲気です。


そんな中で書くのはこわいのですが、私はこの「副作用」の件については、慎重の上にも慎重に考えたい。
副作用の可能性はたしかにリスクとしてある。しかしそれと同じように、あるいはそれ以上に、この件が語られるときの「図式」自体が、状況を混乱に陥れかねない大きなリスクをはらんでいると思うからです。
守ってあげたくなるもののシンボルとして、「罪のない普通の女の子たち」に勝るものはない。
それに対して、冷たく非人間的なイメージを持つ科学技術や公衆衛生行政が、「加害者」として配置される。はからずも、これ以上ないほどの正義と悪の二項対立図式ができてしまっている。
人間というのはこういう正義と悪の二項対立図式に弱いのです。
ほんっとうに、弱いのです。
この二項図式の正義の側に立つためなら、無意識のうちに色んなものを犠牲にしてしまうほどに弱いのです。
副作用はあるのかもしれません。でもまだわかりません。私は副作用とされるものに苦しんでいる人たちの言っていることをあやしんでいるわけではありません。しかし今言いたいのは、真相が解明されるまで(少なくとも、なぜこのワクチンで上のような諸症状がでるのかということがわかるまで)、決して「巨悪の犠牲になる弱い少女」のような、安易な二項図式をあてはめてはいけないということです。これは主にマスコミなど当事者以外の人に言いたいことです。
周囲が安易に二項対立化して、単純な正義感で煽り立てると、副作用を訴える方々と未来の子宮頸がん患者を含めたすべての人が不幸になります。


しかし残念ながら、「巨悪を罰し、か弱い少女を助けよう」という正義に燃えることは、現実的な落としどころを探す試みよりずっと魅力的です。何よりスッキリします。
その結果、正義感に魅入られた人々の圧力が場を動かすようになり、それに異を唱える者は傷つけられるという状況が起こる。別の可能性を唱える人が口を閉ざす。
結局真相はわからず、「子宮頸がん患者を減らす」「副作用を正しく把握する」というような根本的な問題が解決されないまま忘れられていき、誰も利益を得られない。
子宮頸がんワクチンについて、今使われがちな二項対立図式は、そういう状況を起こすリスクを大いにはらんでいるということが言いたいのです。