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「リスクの比較」?

http://togetter.com/li/159792
ツイッター上での応酬。
科学について論じる多くの人文社会科学者の例に漏れず、H川先生は「人は疑問を感じたら〈正確な〉知識を求めるものだ」「ひとたび探求が始まれば、多くの人は同じような(おそらく〈穏当〉な)回答の周辺に行き着き、心を落ち着けるものだ」という2点を隠れた前提にしているように思われる。
しかし代替療法の周辺をぐるぐるしてきた自分としては、そのどちらにも懐疑的にならざるを得ない。
「主観的不安→客観的事実の収集→自分なりの結論→一応の安定」を通るルートはたしかに理想的だが、「主観的不安→自分の気持ちにあった情報集め→自分の気持ちにあうほうに倫理的価値を付与→「正しい」と思う行動をすることでの心の安定」のルートをたどる人はけっこういるんじゃないかと。
これに対してK地先生は、「〈どれが自分の気持ちに合うのか〉という比較をするのではなくて、〈客観的事実〉を〈客観的な目〉でもって比較することを勧めてくれ」と言っているのではないか(〈客観的事実〉とか素朴すぎ(笑)と言われたらもうアレですが)。


身体や生命にかかわることである以上、放射能や被曝の問題を語ることが倫理の言葉につながってしまうのは〈自然〉に見える。つまり何が〈善いこと〉で、何がその逆かという問題に当たり前のようにつながってしまう。
だけどもそのつながりは〈自然〉なのか。そこをつなげる前に、1段階2段階、あるいは踏むべき思考の段階があるんじゃないか。特に言説を扱う「専門家」たる社会科学者であれば、この手の〈自然〉さにナイーブでいてはいかんよな、などと思う日々。